喜界島を歩く

喜界島(きかいじま)2010.12.29〜2011.1.1
12.29
 早町港〜阿伝〜七十七曲がり〜百之台〜早町〜志戸桶〜トンビ岬〜ハワイ〜小野津…バス…阿伝…車…湾(歩いた総距離約24q+α)
12.30
 湾〜スギラビーチ〜荒木中里遊歩道〜手久津久〜上嘉鉄…バス…中間〜ウフヤグチ鍾乳洞〜中間…バス…湾(歩いた総距離約19q+α)
12.3
 湾〜車〜最高地点〜夫婦ガジュマル〜高尾神社〜蒲生…バス…湾歩いた総距離約7q+α)
1.1
 湾、赤連全体(歩いた総距離約3q+α)

赤線が歩いたところ

アクセスカウンター
喜界島のキーワード
・隆起珊瑚の島なのでハブが生息していない
・南の海に浮かぶ珊瑚礁の島
・ヤマトと琉球王国それぞれの文化圏の境界
界島、海島、界が島、鬼界島……
・巨大円形アンテナ「象のオリ」
・「ウフクンデール」(喜界島のありがとう)
・城久遺跡群から類須恵器→沖縄諸島であまり確認できない考古資料が集中分布→奄美がヤマトに属することの証明?琉球弧の入口→南下する倭人勢力の拠点
・小さな島の小さな物語(安達征一郎)=喜界島にやってきた旅人や滞在者・移住者としての貴種たちとの交流史→喜界島という舞台の豊かさ
・ウラトミ伝説
・山のない喜界島、喜界は、島の言葉で「ききや」。「き」は「土台とか基礎をいう地形語」。「や」は「岩を指す地形語」。「段の島」
・特攻花
・鬼の魔術的な力が溢れ、乱暴であると同時に富の溢れる世界
・九州と沖縄の「中間」に位置する島
・「よんよーり」(ゆっくり)
・保護蝶オオゴマダラ
・町花はリュウゼツランの花、集落数43、島の人口は8,090人(平成22年12月1日現在)……※加計呂麻島に比べると約6倍の人口である。
12月29日(水)
早町(そうまち)港〜大ソテツ〜阿伝(あでん)〜七十七曲がり〜百之台〜早町〜志戸桶(しとおけ)〜トンビ岬〜ハワイ〜小野津…バス…阿伝…車…湾


早町港から歩き始める
 鹿児島を前夜出発したフェリーきかい。29日早朝、湾港に着く予定であった。海は荒れに荒れ、15sのザックがとんでもないところに転がる。朝5時。船内放送。
「湾港には荒天により近づけないため、今日は早町(そうまち)港に着岸します」
 帰省客達は皆、携帯電話。……えっ。早町?どこだ?頭の中に地図が浮かばない。
「早町ってどこです?」と、帰省客のお一人に聞く。
「湾の全く反対です」。地図で確認する。あー、ここか。計画し直さないと、うまく歩けないなぁ。……2日目に歩く場所だった。
 朝6時、早町港に着く。まだ真っ暗だ。小さな待合室で地図を出し、計画練り直し。今夜は湾のビジネスホテルに泊まる予定だった。そこをずらさず、どう歩くか?
 まず、阿伝まで歩き、七十七曲がりを登り百之台に向かう。そして、高台地ルートから早町に下り、志戸桶へ。そこから北端の海岸沿い(トンビ岬、ハワイ)を歩き、小野津に向かう。そこで2時頃になるだろう。その先は、小野津で考えよう。

 7時前に出発。まだ日の出にはほど遠いが、少し明るくなり始めた。
 初めての島を歩くのは気持ちよい。船酔いの体に平衡感覚が戻ってきた。嘉純に来ると、「大ソテツ」の標識が目にとまる。当初の計画になかったが、大ソテツに行く。立派なソテツだったが……。
 サトウキビ畑が連綿と続く中の道を一人歩く。飽きかけてきた頃、「七十七曲がり」の標識を発見。樹林帯に入る。ハブのいない(生存できない)島なので、気持ちよく樹林帯を登る。樹間から雲の流れや木々を渡る風の音、鳥の鳴き声に耳を澄ませる。朝の木漏れ日が心地よい。ほのかな光を精一杯吸収するように下草が茂っている。ガジュマルも自然に「ある」。喜界島の数少ない樹木は、喜界島の“森”を支配している。思わず敬意をもつ。生きているということは、こういうなのだ。感動のスタートとなった。

 約25分で七十七曲がりを登り切ると、何と舗装道路があった。地形図で道があることは知っていたが……舗装道路とは。その道を百之台に向かう。百之台展望台からは阿伝や嘉純の集落、サトウキビ畑、その先に広がる珊瑚礁の海を見下ろす。百之台は島の中央部に広がる標高203mの広大な隆起珊瑚礁の高台である。
 “百之台は年間2mm もの速さで隆起しており、その速さは世界有数。十数万年前には海面にあったと見られており、近年の気候変動などの研究分野で世界的に重要視されている。”
 その先どこまで続くか分からない舗装道路を延々と歩く。多くの道(サトウキビ作業道?)が交差し、コンパスを頼りに早町に下る。結構きつい。約5時間歩いて、志戸桶小学校へと向かった。幼稚園と併設の小学校。何となく入ってみた。29日なのに、女性の教頭先生が一人残っておられた。
「閉庁でしょう?学校にいないといけないのですか?」と私。
「ええ、鹿児島県では管理職の一人は残ることになっています。途中で校長と代わります」今年は暦の関係で3学期のスタートが遅いので、冬休みの後半、鹿児島に帰るとのこと。正月は娘さんが喜界島に遊びに来るという。若いときは屋久島にも3年勤めた。楽しい3年間で全ての山に登ったと。羨ましい。私の職業を明かし、様々な話をする。
 近く、島に8校ある小学校も2校に統合される。何処も同じだ……。
 志戸桶海岸に行く。遠くの波が裾礁のところで白く裏返る。その内側の数少ない砂浜にエメラルドの平たい海が優しく美しい。珊瑚礁の上に「平家上陸の地」と書いた石碑があった。しめった小さな波打ちの音が、まるで私の心の傷口をなめるように寄り添う。白い平たい優しさに包まれる。
 その後、北端の海沿いをトンビ岬、ハワイと一人歩き続けた。風は強いが南島の太陽が皮膚を活性化させる。エメラルドの海を見ながらハワイで遅い昼食。
 小野津に着き、小さな商店で缶ビールを買う。汗をかいた体。猛烈にうまい。ぼーぅと周回道路を見ていると、一人のおばあさんがじっと同じ場所に立っている。そばに寄ると、小さなバスが近づいてきた。おばあさんに引き寄せられるように私も飛び乗った。
 10人乗りぐらいのバス。後で知ったが、喜界島巡回バスには「北本線」「南本線」「中央線」の三つの路線がある。「北本線」のバスだった。何を言っているかわからない方言で話すお年寄りが5人ほど乗っていた。適当な場所で、一人ひとり降りていく。私は今朝、阿伝集落をしっかり歩いていないので、嘉純を過ぎた辺りでバスを降りた。

 阿伝に限らず、集落内の各家々の垣根はサンゴで作られ台風に備えている。ハイビスカスやブーゲンビリアが咲いていた。……阿伝の海を見つめていた。湾まで歩くのは無理!またいつか来るだろうバスに乗るかな?とたばこを吸っていると、男性が近づいてこられた。
「どちらまで行かれるんですか?」「湾の方へ」「私もそちらに行きます。よかったら乗りませんか」。当たり前のように自然に、彼の車に乗っていた。島に移住してきたといわれる。医者でありスキューバーダイビングをしていると。驚くべきことに、彼(takaさん)は今回事前に情報をいただいたJさんと数日前に飲んだと言う。その時、私の話も出たそうだ。驚くべき奇遇。……Jさんの教会まで送っていただく(Jさん、教会の前で記念写真を撮りましたよ)。

 この日は予定どおり、ビジネスホテル喜界に泊まる。経営されている美しい女性、M井さんにとても親切にしていただく。感謝!
 同宿の山羊研究者のA女史と話す。
「喜界と言ったら山羊。山羊と言ったら喜界島でしょう!」えっ?知らなかった。A女史はできれば一年は、この島の山羊を研究したいと言っていた。……山羊を食わんとな。……
 数日前にしめた山羊を出す店を知っているとM井さん。居酒屋keiまで車で送ってくれる。山羊のカラジューリー(山羊肉と野菜を山羊の血で炒めたもの)と山羊の刺身を食べた。うまかった。黒糖焼酎の朝日を飲む。どっと一日の疲れが出て眠くなった。keiのママさんがホテルまで送ってくれた。皆、優しい人ばかりだ。

山羊のカラジューリー

山羊の刺身




阿伝の石垣
12月30日(木)
 湾〜スギラビーチ〜荒木中里遊歩道〜手久津久(てくづく)〜上嘉鉄…バス…中間〜ウフヤグチ鍾乳洞〜中間…バス…湾



 前日、takaさんの「空港の奥に特攻花がまだ咲いている」という言葉をたよりに湾から空港の海側を歩く。荒天が予想されたが、青空が最高な朝。すぐに「特攻花」を見つける。  
 特攻花(天人菊)が結構咲いていた。その事実はともかく、特攻隊は真実だし彼らの無念を思う。そこからスギラビーチ〜荒木中里遊歩道を歩く。スギラビーチを過ぎ、樹林帯に入ると蝶に遭遇。動画を撮ったが、なんという「蝶」か分からなかった。オオゴマダラではないだろう(?)。

 荒木中里遊歩道を歩いていると、突然、携帯電話。
「31日も1日もフェリーは出ないと思います」と奄美海運から。天候は予想以上に悪いようだ。下手をすると、4日まで帰れなくなるかもしれない。4日には仕上げねばならない仕事がある。一挙に、興ざめ不安になる。しかし、大きな外海という巨大な生き物の呼吸に合わせて、快いリズムが体内に湧き起こる。身も心も順調なはたらきを取り戻す。……足取りも途中から軽快になる。
 荒木を過ぎ、手久津久(てくづく)のガジュマルに行く。ガジュマルの木の下を通るとケンムンにとりつかれると島人はいう。樹齢100年。その巨大な神々しいガジュマルを見るや、「帰れなくてもいい、神は乗り越えることのできない試練は与えない」という気分になる。
 ハブがいないので、カケロマでは経験できなかった気根の間を歩く。15キロのザックを下ろすのも忘れて這い回る。……本当に、すごい存在感だ。上嘉鉄まで歩き、ここからどうするかなぁとしばらく思案する。


荒木
 上嘉鉄から湾に向かう道がある。そこを少し登る。突然、雨が降り出した。参ったな。戻る。しばらくすると、南本線のバスが来た。何も考えずに、飛び乗る。お客はお年寄5名ほど。みんな定期のようなものを持ち、昨日と同じように適当な場所で降りる。息子さんが飛行機で帰ってくるとか、サトウキビの収穫期に入った話をする。……飛行機か?少し脳裏に残る。毎日の日課なのだろう。お客さんは運転手さんに「○○ちゃん」と言っていろいろ話しかける。少しすると、雨がやんだ。
「運転手さん、ウフヤグチの鍾乳洞に歩くとしたら、どこからが近いですか?」
「……行ったことないけど、中間(なかま)でしょう」
ということで、中間集落までぐるっと回る。
 中間に着くと、風は強いが青空だった。気持ちよくどんどん上に向かう。島の人は内陸部に入ることを「上に行く」という。島中集落近くに着くと、今度はすごい雨になった。天気がころころ変わる。集落の家の軒先に雨宿り。家の方が「どうぞ、中へ」と言われたが、外で我慢した(今、後悔している。いろいろ話ができたかもしれない)。上下雨具を着る。20分ほどで雨が静かになり、文字通り、登る。所々に案内板があり、ウフヤグチの鍾乳洞に着いた。

 車道から草付きの斜面を登ると、鍾乳石や石筍の痕跡が残る小さな鍾乳洞があった。小さいがガジュマルが入り口をふさぐ。まさに、“恐れ”を感じる空間だった。戦時中は防空陣地となり、石筍等は破壊されたらしい。中村獅童主演の「実録 小野田少尉」のロケ地になったという。ヘッドランプを持ってきていたが、ザックの下の方に入ってしまったようで、すぐに出てこない。……結局、真っ暗な奥の方には入り込めなかった。

 また、元の道を戻り、中間へ。そして、湾に向かう。突然、すごい風と雨。しばらく中間のバス停に走り戻り、様子を見る。結局、通りかかった南本線のバスに乗り、湾へ。天候が悪く、今日もビジネスホテルに泊まる。今回は、ビジネスホテル林。でかいザックを持って、何をしているのだろう(笑)。
 その夜は雨もやみ、やき鳥屋「あいちゃん」に行く。多くのお客さんがいて、様々な話ができた。朝日酒造、喜界島酒造の方々との話は面白かった。島のこと、しまんちゅのこと。「朝日」「しまちゅ伝蔵」を飲み比べながら、外から見た喜界島、島から見た日本を語り合う。マスターは栃木から移住された方。商売も忘れて?飲み合った。
 実に楽しく充実した3時間となった。ホテルに帰る道。真っ暗な空を見上げると、多くの星があった。

 しかし、ホテルの夜中。もの凄い嵐のような天気となった。テントを張らなくてよかった!
12月31日(金)
湾…車…最高地点〜夫婦ガジュマル〜高尾神社〜蒲生…バス…湾
 大晦日。
 朝から大風時々雨。
 フェリーは31日も1日も動かない。その後は4日。……
 飛行機は30日飛んでいた!喜界空港に行ってみる。……31日の今日は鹿児島便3便全便欠航。1日の2便がとれた。まずは帰りの足を確保した(明日も欠航するかもしれないが)……。さあ、どうするか?外は大風、相変わらず雨も降っている。
「象をオリ」を見るか。じゅんやさんから“象のオリは立ち入り禁止で近くまでしか近寄れません。喜界島最高地点から遠く眺めることはできます”という情報があったな。
 空港の前にタクシーが一台停まっていた。タクシーで最高地点まで行く。最低!?
 風は冷たく強いが、雨はやんだ。
 最高地点から(防衛庁の通信傍受施設「喜界島通信所」の円形アンテナ施設)を遠望できる。通信所と言うが、傍受専用施設である。
 この日の夜、実は自衛隊の方と話すことができた。「オリというけれど、柵も金網もありませんよ。遠くから見たら数本のアンテナしか見えなかったでしょう」。その通りだった。見ても何も感じなかった。
 気分を変えて、舗装道路を歩く。直線を進む。曲がる。進む。
 森に入り、下る。
 ……余りにもすごいガジュマルに出会う。これが夫婦ガジュマルか。感動する。畏敬の念を持つ。時々日も差す。変な天気だ。
 推定年齢850年といわれる奄美最大の気根多発樹。
 心の準備をして見ないとその不気味さに負かされてしまうだろう。
 道路のコーナー、左側に子ガジュマル(私の勝手な想像)、右側に大きな二本、奥にも一本。右手の大きなガジュマルを勝手に母ガジュマルと命名した。大地の母というが、偉大なものは「母」が似合う。喜界島にはまだまだ発見されていないガジュマルが多くあるらしい。この夫婦ガジュマルも開墾した際、見つけたそうだ。
 森を下る。途中、左手にブロックでできた階段があり登る。高尾神社と書かれた鳥居があり、さらに進む。登る。大きな岩場で小径は消えた。岩場の下に、神事が行われそうな空間があった。雨が降ってきた。同じ道を下る。蒲生(かもう)に下る。
 手が悴むほど寒い(後で知ったが、この時、奄美本島で雪が降ったらしい)。時々、霙のようなものが顔を叩いた。バス停に逃げる。今夜もビジネスホテル喜界に泊まることにする。M井さんが「迎えに行きましょうか」と言ってくれる。しかし、断った。デカいザックを背負った男一人、精一杯のやせ我慢の言葉だった。一時間近くバス停で震えた。

 湾に帰っても何処も店が開いておらず、スーパーでカップ麺を買う。今日は大晦日だ。

 ホテルに着くと、M井さんが田イモを黒糖と醤油で味付けしたものを作ってくれる。
 ほどよい甘みとモチモチ感。実に味わい深かった。

 夜9時から開くという店をM井さんに教えてもらう。ホテルから歩いて一分。
 cupidoという洒落た店だ。若い女性(大半が成人を迎える子)を中心に2,30人。壱乃醸を飲みながらピザを食べる。生野菜を食べる。自衛隊に勤務する青年と話す。喜界島に7年目という。あのオリのそばに宿舎がある。今夜はタクシーで帰るという。続々、若い女性が入ってくる。
 女性たちと話す。飲む。写真も一緒に撮ってもらう。喜界島では昨年、皆既日食が素晴らしかったという。ダイアモンドリングもバッチリだったそうだ(悔)。
 最高の大晦日となった。店は翌朝の4時までやっていたそうだ(笑)。ママさん、ご苦労様。本当に素敵な店でした。……喜界島の女性はみな美しい

田イモ
1月1日(土)
 湾、赤連全体を歩く
 朝、強い風が吹き、時折、みぞれのような雨が降る。喜界空港に行く。
 一便に一人分キャンセルが出て、「どうですか?」と聞かれる。一便は12:55発。小降りの雨の中、湾や赤連を歩く。強風ゆえに、時々、太陽も見える。太陽がのぞく時間が増えてくる。少し回復傾向かな。
 昨夜の「つい最近、安達征一郎さんの記念碑ができましたよ」という情報を手がかりに湾港に行く。すぐに、記念碑は見つかった。
 安達さんの「小さな島の小さな物語」の断片を感じましたよと心の中で言いながら、その記念碑を見た。
 湾港を見ると、相変わらず風は強かった。南島に吹く北西の風。沁みる。 
 
 帰りの飛行機に乗る。35人ほど乗っていた。今回の水平ハイクは、贅沢三昧だった。一方、目まぐるしく変わる荒天だったが、できるだけ雨の時は停滞したので、南島の太陽を多く感じることができた。全く使用しなかった15kgのザックを背負って約50q歩いた。まあ、ボッカ訓練だ。……滑走する時、機体が左右にぶれる。思いっきり横風を受けているのだろう。
 飛行機が苦手な私は、大緊張。しかし、あっという間に浮上し、数回旋回すると雲の上に出た。小さなプロペラ機はなぜか安心する。
 途中、雲の間から屋久島を見る。宮之浦岳も永田岳も雪だろうなと思いながら見る。山頂部は雲がかかり見えなかった。……白い開聞岳。桜島も真っ白だった。霧島も。一時間で鹿児島空港に着いた。鹿児島市内も真っ白だった

喜界島の珊瑚礁
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