ネパールの旅 ネパールトレッキングの記録 | |||
日程 3月20日:カトマンズ 21日:カトマンズ停滞(ルクラへの飛行機、荒天のため欠航) 22日:ルクラ、パクディン(歩行時間3時間) 23日:ナムチェ(歩行時間6時間) 24日:シャンボチェ(歩行時間2+2時間) 25日:ゴンラ・ピーク(一周、歩行時間5時間) 26日:ルクラ(歩行時間10時間) 27日:カトマンズ 28日:カトマンズを歩く 29日:カトマンズ |
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特徴 ・エベレスト街道をゆっくりシャンボチェの上のピークまで歩きました。エベレスト、ローツェ、アマダブラム等の展望が見事でした。 ・カトマンズからルクラまでの飛行機が飛ぶかどうかが大問題です。 ※登山ツアー会社を利用。 |
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ルート図 | |||
3月22日 | |||
カトマンズ(1300m)から16人ほど乗れる小型機でルクラ(2840m)へ。 このトレッキングでもっとも予想のつきにくいところだ。空路以外、ルクラへ行く交通手段がない。歩くと一週間はかかり、ルクラでトレッキング終了になってしまう(笑)。前日は荒天で全便、キャンセルとなってしまった(しかし、今日から最終日まで晴天が続いた)。 小型のプロペラ機は昔から好きだ。安定感を感じる。落ちる気がしない。約40分のフライトは楽しかった。眼下には夥しい数の段々畑が連綿と続く。あんな急傾斜地の作業、間違いなく、私には続けることはできない。山の尾根を削り作ったルクラ飛行場に着陸する。斜面を利用した短い滑走路で、……停まる。天候が悪かったら、有視界飛行では降りられないであろう。 |
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ルクラ空港は世界でももっとも危険な空港として有名だ。 “山に囲まれた高地にある。空気が薄く乱気流が発生する。滑走路も490メートルと短い。その先も深さ600メートルの谷底。もう一方の先は行き止まり。滑走路自体12度の勾配があり、これは10階建てのビルの高さと同じなのだ。 そういうことなのでオーバランも遣り直しも効かないのである。高地なのでエンジン出力も落ちる。” カトマンズからルクラに行くときは、カトマンズに一日待機させられた。ルクラの天候が悪かったからだ。当然、帰りの天気も気になった。しかし、好天で問題なく離陸し、カトマンズに着いた。 ルクラ便の飛行機はカトマンズを出発し、一日25便運航している。ルクラ空港に着いた飛行機はエンジンを止めず、エンジンをかけたまま客・荷物をおろし、再び新しい客を乗せ飛び立つ。ルクラ空港には点検整備をする人がいないからだ。 ルクラ空港の滑走路の長さは490m。山の斜面の傾斜を利用し、上り斜面に着陸し、下り斜面から離陸する。 窓からは当然、エベレストをはじめ8000m級の山々が望めるが、それ以上に、真下の段々畑や村の風景が心に残る。 |
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ルクラは前日の雪が周囲の山々を白く輝かせる。5000m級の山々の多くには名前は付いていない。山が多すぎるからだ。日本だったら、……考えられない凄い山がだ(笑)。 シャクナゲが赤く咲き、人々の笑顔が穏やかなうつくしいまちだった。多くの人が重い物を額で支え運んでいる。ポーターたちも、同じだ。ルクラで合流したシェルパ、ポーターたちと記念写真を撮った。ルクラの町を抜け、パグディンに向かった。吊り橋を渡る途中、ゾッキョに出会う。この後、きわめて多くのゾッキョに出会うことになる。 |
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3月23日 | |||
3月23日。パクディンから谷沿いの道をジョサレへ。エベレスト国立公園の入園手続き後、高度差600mの坂を上り、シェルパの里ナムチェ(3440m)へ。 ロッジの村、パクディンを離れる。小さな村が続き、古い家や子供たちの姿を多く見る。ドゥードゥコシ(川)の右岸を少しずつ登っていく。遠くにタムセルクが見える。 ジョサレに着くと、エベレスト国立公園の入山手続きをする建物がある。結構、欧米人が多い。入山料を払い、門を潜り入山。大きくいったん下り、ドゥードゥコシの左岸を進む。しばらくすると何度目かの大きな吊り橋を渡る。ここからナムチェまでは上りが続く。気温が低く気持ちよく登る。この頃から頸椎症の痛みが半減する。うれしい。 段々畑が増えてくると、ナムチェの村が見えてくる。谷を中心に馬蹄形に拡がる美しい村。外側に向かい高くなる高低差を利用した(利用と言うより、それしか広がれなかったのだろうが)見事な村。振り返ると、コンデ・リ(6187m)の巨大な白い岩山の存在感に圧倒される。 ナムチェの村は登山家たちでにぎわうが、村はずれの広場で土曜日毎に市が開かれ、農畜産物や商品が並ぶ。標高3440mの台地とは思えない賑わい。何か和やかな健全な賑わいに、ほっとする。 ロッジには三浦雄一郎氏の写真があり、その前で記念写真を撮った(笑)。3,4日後には、彼もここに再び泊まるらしい。 夜、窓の外は暗くて何も見えなかったが、ISO500、露光時間20秒で写真を撮ってみた。ガスの奥にコンデ・リが見えた。さらに一時間後、再び撮る。無数の星の下にコンデ・リがくっきりと写っていた。 |
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ナムチェからのコンデ・リ |
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3月24日 | |||
3月24日。ナムチェからシャンボチェへ。 ナムチェの村の石段を上る。途中、かわいい少女の写真を撮る。こんな感じの落ち着いた子どもが多い。さらに上がり畑を見ると、少年たちが畑を耕し、ジャガイモの種芋を植えていた。この辺り一面の畑はすべてジャガイモ畑。今が植え時。至る所で、子どもたち、女性たちが植えていた。 しばらく登ると、ゾッキョでなくヤクを初めて見る。富士山レベルの高度になると、ヤクの世界になる。さらに高度を上げていき、眼下を見下ろすと、ナムチェの村がよく見えた。本当にきれいな馬蹄形だ。 標高3841mのシャンボチェのロッジに着く。見晴らしのいいロッジだ。シャンボチェには村はなく、ロッジがあるだけだ。景色はいいが、少し寂しい。初めてエベレスト、ローツェ、アマダブラムが見えた。美しい。 メンバーのほとんどは前日から高山病にならぬようにダイアモックスを飲んでいた。私は4500mまで高山病の症状は出ないので薬は飲まなかった。事実、パルスオキシメータで測定しても、常に私の(動脈血酸素飽和度の)数値は高かった。ダイアモックスは利尿剤のようなもの。頻繁におしっこをすると、高山病になりにくい。頻尿で汗かきの私は高山に適している(笑)。翌日は4238mに行く。 |
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ナムチェバザールを見下ろす |
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ロッジからもエベレストとローツェが見える |
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3月25日 | |||
シャンボチェからクンデ村、ゴンラ・ピーク、クムジュン村をゆっくり周回した。 この日の朝も快晴で、ロッジの奥にエベレスト等がよく見えた。メンバーで友達になったT丸さんに記念写真を撮ってもらう。 まず、クンデ村に向かった。クンデ村は緑色の屋根ばかりの静かな村だった。やはり、畑にはジャガイモを植えている女性がいた。僧院の横からトラバース気味に登っていくと、1時間ほどでゴンラ・ピークに着いた。360度の展望。爽快だった。石組みのそばで、再びT丸さんに記念写真を撮ってもらった。ひときわ、エベレストがくっきり見えた。他の山と違い、エベレストとローツェは、常に片側にガスを流していた。8000m峰の強風の証拠だ。 さらにヒラリーメモリアルまで登った。ゴンラピークが右下に見えた。 クンデ村に下ると、父子が元気に歩いていた。 |
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ゴンラピークからのエベレスト |
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クンデ村からクムジュン村を経てシャンボチェに戻った。 クムジュン村はとても清楚な村。故植村さんもエベレストアタックの前に越冬トレーニングをした標高3800mの村。雪は積もっても10pぐらいという。 共同井戸には多くの人が集まる。水をくんだり、そばで洗濯をしている。カトマンズと違い美しい水が得られる。その横にクムジュン・コンバがある。このチベット仏教のお寺にはイエティ?の頭の皮がある……。 老若男女を問わず、多くの村人が水や重いものを頭にかけ運ぶ。種芋を畑に植える。 ヒラリーの寄付で作られた学校を見に行く。子どもがいないなぁと残念に思っていると、春休みだった。 ロッジに戻り、夜のクンビラやエベレスト方面を撮った。 |
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クムジュン村 |
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3月26日 | |||
3月26日の思い出。この日もエベレストはよく見えた。シャンボチェからルクラまで一気に下る。高度順応させるために3日かけて上ったルートを一日で下る。 途中、重い荷を担ぐポーターたちにたくさん出会う。1kg20ルピーぐらいの収入らしい。80キロを担ぐと1600ルピーになる。大体、1600円だ。杵と臼を使い、米を米粉にしている女性に出会う。 僧院が経営している土産物屋を見ると、「見ざる聞かざる言わざる」の像があった。日光のものがなぜ?と思って聞いてみると、ネパール仏教のそれがそもそもの始まりらしい。 何度もつり橋を渡るが、ゾッキョや馬はもちろん、大きな荷を持つポーターとすれ違う時は注意しなければならない。対岸で待つこともあるが、永遠に渡れない気配があるときは橋の途中ですれ違う。 ルクラに近づくとサクラソウが咲いていた。約十時間でルクラについた。ルクラの村に来ると、なぜかホッとする。素敵な村だ。 |
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ネパールの印象 スライドショー | |||
写真が多いのでスライドショーにしました。 |
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雑感 カトマンズ(パタン、バグタプルを含んで)は歴史のある街だ。 しかし、その根底にはビスターレという言葉が浸透しており、常にのんびりしていて殺気がない。電気も水もないが殺気がない。狭い道(拡張工事をしているが、当然いつ終わるか分からない)は工事中で、埃っぽく、車も多い。交差点は多いが、信号もない。みんなスピードを出すが、「いざ」というときは、自然に相手に譲る。パキスタンのカラチなどと全く違う位相の中に人々が暮らす。かつて、世界中のヒッピーのたまり場になったのも頷ける。 この不思議な位相は、ヒンドゥー教とチベット仏教が違和感なく融合している風土に起因していると思う。他者を妨げないのだ。だから、写真も撮りやすい。 もちろん、政治に期待している人は一人もいない。当然のように、焦らず、自分の足で立っているのだ。 ネパールの政治は王政から共和制の枠組みの中での複数政党制の議会制民主主義になった。残念ながら、国民のほぼ全員が政治には何も期待していない(前述した)。そのため、重要な産業である観光客が激減し、不景気が続いている。ネパールの人たちは日本に好意的である。道路建設をはじめ様々な分野で資金・技術協力をしているからだ。 私は、観光客の多くは日本人と思っていた。トレッキングや登山客は日本人が多いが、いわゆる山以外の観光客はそのほとんどが中国人という。自己中心的で、命令口調で、ネパールの人は中国人を嫌っている。しかし、金を落とすので、今まで日本語表示の多かった看板はすべて中国語に変わった。空しい限りである。 カトマンズの多くの家は洗濯機も冷蔵庫も持っているが、……無用の長物という。使いたいときは停電だからだ。夜の街は、真っ暗だ。電気の超豊富な(笑:それでも原発を再稼働するというキチガイ国)日本とは違う。しかし、みんな前向きだ。もちろん、喧嘩は多い。その原因は、一週間に一時間出る水の使い道だ。 ネパールの首都カトマンズの人々の間を流れる空気を感じるたびに、東京の徹底した管理下のロボット社会、洗脳社会に、取り返しのつかない虚しさを感じる。 |
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